だれかの体験について想像してみるということ

 僕は折に触れ「最近なにか楽しいことあった?」と聞く。文面にすると素直すぎてなにか恥ずかしい質問のようにも見えてしまうかもしれないが、口頭で実際に尋ねてみればさほど違和感がないことがわかる。たいてい、あんまり思いつかないんだけど、と楽しむことが恥ずかしいことであるかのような前置きをしながら、めいめいみんな自分の味わった楽しいことを話してくれる。

 たとえば週末に海外旅行に行くというような非日常のイベントから、パンのベーカリーを買ったというような日常の些細なことまで、様々なことを話してくれる。無表情でぶっきらぼうに話すひともいれば、なかには嬉しそうに話してくれるひともいる。心なしか声のトーンが高くなったな、と感じると僕もなんとなく嬉しくなる。

 そういう話を聞いてみて、僕はそのひとが週末の海外旅行で友達と台湾を歩いているところ、買い物をしているところやディズニーランドで楽しそうにしているところ、ベーカリーを家電量販店で選んでいるところや家のパソコンとにらめっこしているところ、そういう場面の手触り、環境音、空気感などを、会話をしながらひとつひとつ、彼女が体験したであろうことや、これから体験するであろうことについて、できるだけていねいに、想像をめぐらせて味わってみたりする。

 そうすると、またいろいろなことが思い浮かぶ。この子は台湾でなにを買うのだろう、現地のひととどんなことを話すのだろう、この子がパンをつくっているときに感じる喜びはどんな感覚なんだろう、それを誰かに渡したりするのだろうか。そういうことからその子に対する関心が自然と沸いてきて、そのひとの懐にほんの少しだけ入れたような気がする。そういうところから、同調に近づいていく気がする。

 でも、それは気がするだけで、ほんとうのところは僕自身の想像でしかない。海外旅行も家電量販店の情景も、僕自身がつくりだした一種の錯覚のようなものでしかない。そうして、会話も想像も横滑りしながらつづいていく。そこからまた新たな関心が生まれて、いろいろなことを知りたいと願う。そこからまた、同調に近づいているような気になる。

 多くのひとがみずからの「体験」について話すとき、たいていはその「体験」によって感じたことをだれかと共有したいと思っている。海外旅行に行く前のわくわくした気持ちとか、新品のベーカリーを買ってキッチンに置いたときの楽しみな気持ちとか、そういうことを恋人や家族や友達、そういう身近なひとたちに投げかけて、自分の内奥から生まれてくるポジティブな感情をまとめて一緒に感じて欲しいと、そう願っている。

 あるいはだれでもいいのかもしれない。けれど、嬉しそうに話すその姿の対面にいるのがそのほかのだれでもない目の前にいる僕であったとき、そのことは単純に少しだけ嬉しいと思う。

 それでも、ときには便利な定型文のようなものとしてこういった質問を発してしまうときがある。集中力が落ちているときや疲れているとき、気を抜くと相手からの反応を簡単なあいづちだけで済ませてしまったり、もっとひどいときにはそれをわざわざ「評価」してしまったりする。それはたぶん、「体験」を話しているひとがもっとも求めていない応答であると僕は思う。あるいは、海外旅行に行った、ベーカリーを買った、という単なる事実確認に終始してしまい、へえ海外旅行に行ったんだ、ベーカリーを買ったんだね、と追認するだけで受け流してしまうこともある。そういうとき、ああ、いま僕は自分の中に入り込みすぎてしまっているな、相手との線が途切れてしまっているな、と気がつく。