バニラ・スカイ、あるいは過去を見つめるということ

 ラストシークエンスで、デヴィッドはこれまで見ていたものが、冷凍保存サービスのオプション契約による夢だということを思い出す。

 たいていのひとは失恋を経験する。元カレあるいは元カノとして関係性を維持することもあるけれど、変にこじらせてしまえばそれさえ難しいこともある。

 デヴィッドの目覚めた150年後の世界にソフィアはいない。醜くなってしまったデヴィッドがソフィアにようやく伝えることのできた別れの言葉は、永遠に宙吊りになったままデヴィッドの内面だけにある。それはあまりにも私的なさよならで、僕たちはだれしも似たような瞬間を体験したことがある。

 もう互いに二度と会うことなく残りの人生を過ごしていくのだな、と察したとき、僕たちはせめてもの別れに、夢や空想のなかで繰り返しさよならを言う。そのさよならは、だれのもとにも届くことはない。それこそ生まれ変わってネコになって、再び出会うでもない限りは。

 この映画のラストシーンは、そういうセンチメンタルな感覚に満たされている。

 「二度と会うことはない」という事実は、言葉にした途端に矮小化されたものになってしまう。けれどほんとうはその言葉は、僕の知らないところで、僕の残りの人生と同じだけの時間を過ごし、新しいどこかのだれかの隣で、就職や結婚や出産、そうしたことを積み重ね、やがてまただれかのとなりで年老いて死ぬ、というあまりにも膨大な時間の密度を有している。

 圧縮されてしまった言葉の結びをほどき、そのスケールを身体感覚できちんと理解したとき、僕となんの関係もないひとたちもそれぞれ同じような密度を持っているのだということにも気がつくことができる。

 僕はこの映画を観るたびに、かつて言葉を交わした、もう二度と会うことのないひとたちが、いまもどこかで日々を送っているということに思い至り、どんな生活をしているのかをひとつひとつていねいに想像してみたり、過去の風景や感触や音や匂いなどについて、もういちど思い出したりしてみたりする。そうして映画を観るように繰り返し体験しなおすことで、僕たちはまた新たな何かを見いだすことができる。