話題をつくるということ、または自然な会話について

 あらかじめ用意した話題で会話を組み立てるひとがいる。僕も定型文としていくつかバリエーションを持っていて、かつてはそのように会話のための準備をしていたこともあった。

 話題を意識して会話をするということは、会社のような社交的であったり儀礼的な場ではとても便利なこともある。けれど、そのような役割から離れた場所でそれをしてしまったとき、なにかを逃してしまったことに否が応でも気づかされることになる。

 話題をあらかじめ用意しておくということの背後には、会話の最中に訪れる空白を恐れているという意識がある。そうして繰り出された話題は、それそのものが目的になってしまい、お互いその作為的な感触に違和感を覚えてしまう。そうして組み立てられた対話はほとんどの場合、話題を一方的に投げかけた側が満足して終わるか、どこまでも儀礼的なやりとりに終始してしまう。

 話題をつくることで空白を埋めることはできるかもしれない。けれど、そうして組み立てられた会話の最中は、おそらく相手を見失っている。沈黙への恐れから、気まずさを回避したいあまりに、相手との関係が途切れてしまっているだけでなく、自分の内側にも入りすぎてしまっている。そうなってしまえば、もう相手の姿を捉えることはできない。

 そうではなく、その対話において相手の身体にしっかりと向き合い、じっくりと観察することで見えてくるものや、気づけることがある。そうして捉えたことから、自然と話題が生まれ、会話がつづいていく。

 振り返ってみれば、僕たちが会話を楽しいと感じていたとき、そうした作為はおそらく感じ取れない。話題はお互いから生まれ、そのとき思いついた言葉を紡いでいた。それこそがほんとうに自然な会話なのだと思う。

 どうしても周波数の会わない相手はいる。あらかじめ準備しておけば、そうした相手に無理やり話題を捻り出すこともできるけれど、たいていその会話には齟齬が生じてしまっている。話題を出して、それに大して反応はあるけれど、おそらくどちらも楽しんではいない。ひたすら質問に大して応答を繰り返している、事実確認だけの空疎なものになる。お互いにそのことに気がついているから、どちらかあるいはふたりがその亀裂をどうにかしようと躍起になり、どんどん会話は横滑りしていき、より深いズレが生まれてしまう。

 相手が放つ周波数やチャンネルが合わないなと感じたのなら、ほんとうに自分がその相手に関心を持てているのかどうか、相手の姿をしっかり捉えられているのかどうか、見つめ直してみる必要がある。

 ただ僕たちはつねに、だれしもと繋がりつづけられるということはない。僕はあなたではないし、あなたは僕ではない。