第三者としてじぶんの声を聴くということ

 いぜん読んだいくつかの本のなかで、自分の会話を録音してみると様々なことが見えてくる、というようなことが書いてあって、実際に試してみたことがある。

 さすがに知人との会話を録音するのは気が引けるので(自己反省という意味ではその方が効果が高いのだろうけれど)、Skypeの見知らぬ人との通話だったり、飲み屋で話すことになったよく知らない人を相手に試して、適当にラジオ代わりに聴いたりしていた。

 これが意外にも面白く、僕たちは自分が思っている以上に、じぶんの発しているはずの声や、言葉について無頓着だということがわかる。

 たとえば声について。僕の場合、やや声がキンキンしているのだけれど、声の音程が落ちたとき、じぶんではかなり低めに発していたと思っていた声が、実際にはそれほど低くなっておらず、高い声を無理に押しつぶしたようなややかすれ気味の声になっていたことに気がつく。端的に言って、あまり他人に安心感を与えるような種類の声ではない。

 また僕はいろんなひとから、胡散臭い、軽薄な感じがする、適当に喋っている、詐欺師みたい、でも友達は多そうなどと言われた経験があり、あまりに自己イメージからかけ離れた印象を持たれていたので、いったい何故なのだろうと思っていたのだけれど、録音した会話を聴いてみると、声のトーンが高くテンポも早めで、喋っているときの単語数がやたらと多く、頭が空っぽの人間の典型のような喋り方をしていて、なるほど確かにそういう風に聴こえなくもないな、という新鮮な驚きがあった。

 こうしてじぶんの声を第三者的に聴いてみることで、話す声と聴かれている声とが乖離しているという事実を知っているということと、実際に聴いてみて身体的に理解する、ということとは全く違うということがわかる。

 会話の内容そのものについても省みることができる。こまかな言い回しの誤りや、会話をこちらに引き寄せすぎてしまうなどのミス、じぶんの言葉が他人を傷つけるような可能性などについて、後からじっくりと考えをめぐらすことができる。

 逆に対話の相手についても、ここでなにかを話したがっていたのだな、ここで退屈そうにしているな、あるいはこのひとは一方的に話をぶつけてきていて僕のことを見ていなかったのだな、など色々なことを聴き取ることができる。そうして言葉を介して他人と会話するということが、いかに不安定で難しく、不完全なものであるかということにも気がつくことができる。

 数十年間で染みついた喋り方や、生まれ持った声そのものを改善するというのは確かに困難ではあるけれど、声の大きさ、音程、トーン、間、テンポ、あるいは会話の組み立て方などの要素については意識的な改善の余地がある。

 他人の鼓膜を揺らすじぶんの声を、みずからの鼓膜を通して聴いてみることで、他人がそこから受ける印象や影響について考えるヒントを与えてくれることもある。