悪意に遭遇したときに僕がしていること

 あまりにアイデンティティを揺るがされるような言辞や行動に遭遇してしまったとき、そうして沸き起こった嫌な思考が頭から離れない、ということはしょっちゅうある。

 そういうときにはたいてい「話す」か「書く」ようにしているのだけれど、どちらかといえば「話す」ことは避けるようにしている。それは端的に言って単なる愚痴であって、一方的に話すことで聴き手にネガティブな感情に巻き込んでしまいやすい。愚痴に悪意を含有しないように話す、というのはそれなりに難しいことであると思う(ここでそんなこと知るかおれの話を聴け、と言えてしまう人間の方が傷つくことなく生きていける、というのはまあクソッタレな話ではある)。

 なので僕はそういうときの対処法としては「書く」ことを選んでいる。いぜん反芻思考が酷かった時期には持ち歩いていたスケジュール帳にありとあらゆる罵詈雑言を書きなぐり、再びそれがくるたびに読み返したり書き足したりしていた。はじめは専用の手帳に書いていたのだけれど、スケジュール帳のページはどうせ余るし、一年も経てば書いたときの記憶も薄れている。そのまま処分すれば、溜めてきた嫌な感情もまとめて一緒に捨ててしまえるような感じもする。

 こういう話をすると何故か「陰湿」だという印象を抱くひともいる。でもちょっと考えてみればわかることだけれど、それはだれもが心のなかに抱いていることでしかなくて、ただそれを言葉で書くことで可視化しているだけのことに過ぎない。べつに書いたものを公共空間に貼り出すわけではない。

 なんの関係もない他人に愚痴をぶちまけ悪意を拡散させる方がはるかに迷惑だと思う。

  ひとつのおまじないのようなものとして、あらかじめ手首にゴムを巻いておき、反芻思考をしていることに気がついたときに強く引っ張りはじくという方法もある。ようはネガティブな感情を身体的な痛みに転化させるというもので、これはリストカットを防止したりするときに用いる擬似的な自傷行為ではあるのだけれど、お手軽でまあまあ効果がある。普通の輪ゴムを着けて歩くのはさすがにダサいので、セレクトショップとかのヘアゴムなんかを買って腕に着けておいて、気がついたときにすることもある。

 なかには、これでも収まらない場合がある。

 そういうとき、僕は素直に感情をぶちまけることにしている。ようは普通に怒るということだ。怒りという感情はごく自然なものであって、それは絶対に忌避しなければならないようなものではない。

 怒りをコントロールする必要はもちろんある。けれど、それは怒りを抑えつづけろということではなく、どれくらい怒るかを調整するという意味も含まれている。

 アイデンティティを揺るがされるほど傷つくようなことを言われたのなら(社会的に難しければ諦めるしかないこともあるけれど)容赦なく言い返せばいいし、傷つければいいのだと思う。

  怒ったことは場合によっては非難されるかもしれないし、結局は不毛な結果を招くだけかもしれないけれど、冷静になって周りを見渡せば多かれ少なかれみんなそうしている。大人げない、と眉をひそめるひとだって、聖者でも覚者でもないのだから怒ったことがないなんてことはない。じぶんを棚上げして他人を非難しているだけだったりする。

 なんでもない僕たちは、ずっと痛みに耐えつづけられるようにはできていない。