死にたいということ

 僕もそれなりに、なんども死にたいと願ったことがある。このまま眠って目が覚めなければいいと祈ったり、うすぼんやりとした意識でプラットフォームに立ち、このまま電車に飛び込めるかなあ、でも無理だなあ、と思ったり、賃貸で首吊ったらきっといろんなひとに迷惑かかるよなあ、うちのわんこがおれの死体を見たらお腹の上に座ってくれるかなあ、などと考えてみたりする。

 生きていればみんなそんなふうに考えることもあるだろうし、人並みの希死念虜を僕も持ったことがある、というだけの話だと思う。

 ものすごく曖昧な話をする。

 僕たちが死にたいと感じるとき、たいていの場合つねにじぶん自身を監視しつづけている何者かをそこに感じてしまっている。僕たちが耐えきれないような蔑視を向けてくる「だれか」。ずっとじぶんを監視しつづけ、いちどでも"過ち"(しかもほとんどの場合、傍から見れば"生か死か"という問いかけに至るようには思えないごく些細な)を犯してしまった僕たちを、超越的な視線で見ている「だれか」。

 この「だれか」はおそろしく漠然としている。多くのひとがその視線に苦痛を感じている。多くのひとはそれを「だれか」と言語化することさえなく、漠然とした感情の塊のようなものとして意識の底に沈んでいる。

 いったい「だれか」とは誰なのだろう。

 おそらくそれはなんにでも代入可能な「だれか」なのだと思う。

 むかしはそこに「世間」とか呼ばれていたものを代入していた。あるいは「神様」だったかもしれない。

 いま「世間様に顔向けできない」というような言葉を「そんなのくだらないよ」と棄ててしまうひともたくさんいると思う。「好きなようにやればいいじゃない、世間の目なんて気にすることない」。

 しかし僕たちは恐れてしまっている。背後にいるような気がしている、仮構された無数の視線から逃れられずにいる。僕たちが犯してしまった、あるいは犯さざるを得なかった"過ち"を、その無数の目に見つめられ、非難されることを恐れている。でもほとんどのひとは見られていることすら気づいていない。そこに目があることにも気がつかず、「だれか」を言語化することもできず、ただただ苦しめられている。そうして苦痛のあまり死にたいと願ってしまっている。だれなのかもわからない、どこまで監視しているのかさえわからない、そもそも監視されているのかどうかさえわからない「だれか」の目に触れ、僕たちがひどく傷つけられることを恐れ、そのことにひどい苦痛を感じている。

 それが死にたいという気持ちを呼び起こす。その無数の目を「世間の目」と呼ばずにいったいなんと呼ぶのだろう。

 言葉のレベルではそうした言説を否定できても、感覚のレベルではしきれないということに否が応でも気がつくことになる。

 もちろん「だれか」が具体的な形を取ることもある。その"過ち"によってその「だれか」が離れて行ってしまうのがつらくて死にたいということももちろんあり得る。たとえば恋人であったり、友達であったり、親子であったり。いくらでも代入可能だ。そうした場合、また話は変わってくるけれど、どちらにせよ、他者はどうにもできないということを知ることが僕は大切だと思う。