いまここを感じるということ

   恋人らしき男の子が缶コーヒーを手渡し、女の子が「わー、温かいね」と笑うのを見ていた。
 
    だれかが「温かい」と笑うとき、僕たちはその温かさについて想像してみたりすることができる。冬の冷えきった手のひらに、熱い缶コーヒーが触れたときの温度を感じてみたりすることができる。そうすると、手のひらが少しだけじんわりと温かくなったような感じがしたりする。そうすると僕たちはまただれかと同じ気持ちになったりして同調できたような気になり、なんとなく幸福な気分になることもある。
 
 けれど、その温かさはそのひとの感じた温かさとはまったく別のものだ。僕たちにはその「温かい」という言葉を受けとり、その温かさをなんとなく想像してみることしかできない。そのひと自身が感じた温かさそのものには永遠に届かない。そのことをあとになって呼び覚まし、それを再び記憶のなかで体験しなおしたときに、それがたんなる錯覚でしかなかったことに気がつく。
 
    たとえば水曜日。秋から冬に移りかわる朝、視界いっぱいに広がる空の青みも、指に触れる風の温度も、深呼吸のときに感じる舌の感触も、雨あがりの濡れたアスファルトの匂いも、揺れる木々のざわめきも、僕たちの言葉ではそのすべてを表現することはできない。僕たちの五感が"いまここ"で感じていることのほとんどは、言葉にすることで削ぎ落とされてしまう。
 
 これらは言葉にするとなんとなく順序だてられているように見えるけれど、実際には僕たちの五感はこれらを"同時に"味わっている。「温かいね」とつぶやいたとき、彼女はほかにも多くのことを感じていたのではないかと思う。たとえば缶コーヒーを握っていないもう片方の手の冷たさ、じぶんの吐く白い息の温かさ、恋人のためにつけた香水の甘い匂い、とか。
 
    そうした美しさは、ほんとうは僕たちの五感に宿っている。美しい言葉も、そうしたことを表現しようという気持ちから生まれてくる。まぎれもない"いまここ"を感じとることが大切だと思う。