感情を言葉にするということ

 「嬉しい」と言葉にするとその他の感情は切り離されて、じぶんの深いところに押しこめられ「私は嬉しいのだ」と感じるようになる。

   実際には「嬉しい」や「切ない」や「悲しい」といういくつもの感情が絵の具のように入り混じっていて、そのなかのどれかひとつ、たとえば「嬉しい」が大きく目立っているとき、それを「僕は嬉しいんだ」と言葉にすることで他の「切ない」や「悲しい」という小さな感情が切り離され、「嬉しい」という感情がはっきりと心のなかで表面化するようになり、それが当てはまると感じるのだと思う。
    そうして多くの感情は味わってすぐに言葉になってしまう。そうすると、感情は言葉に誘導されてしまう。でもときどき、そうした言葉がぴったりと合わない、ドロドロとしたないまぜの感情が渦巻いているときがあって、そういうときはとても心地がいいな、と思う。
    今日ふと感じたのは「嬉しい」けど「切ない」ような、あるいはどこか「悲しい」ような感情だったと思う。
 それを感じてみて「僕は嬉しいのだろうか、それとも切ないのだろうか、悲しいのだろうか」とみずからに問いかけたときに、そのどれもが当てはまるような、あるいはどれもが当てはまらないような、そんな感覚があった。
    とにかく言葉にすると感覚が失われてしまうような気がして、それをただ感じてみようとつとめた。帰りみちを急ぐサラリーマンの群れをぼんやりと見つめながら、しばらくそうした気持ちを感じつづけていた。だんだん感情がおさまってくると、そのあとに「切なさ」の手触りだけが残った。