<共有できない部分>について

 「結婚って、やっぱり妥協なのかな」と彼女はいった。

 それは"愛し合うふたりならなにもかもがわかりあえる"という幻想が前提になっている、減点法の言葉ではないかと思う。そもそもパートナーでなくともありとあらゆる他者は、互いに孤立した存在からすれ違いを繰り返すことで、徐々に関係を深めていくものでしかない(というよりありとあらゆる理解は"誤解"でしかないのだけれど)。

 決してすべてを理解しあってパートナーになるわけではないし、パートナーになった瞬間に自動的に理解しあえるようになっているわけでもない。

 いくら愛し合うパートナーであっても他人は他人だ。社会的な地平での他人という意味でもあるけれど、もっといえば根源的一者として別個に存立しているひとつの実存という意味での"他者"なのだ。他者はどうにもならない。他者にこうあってほしいという欲望、こうであるべきなのだという思い込み、じぶんの思い通りに操作してやろうという思惑が、傲慢や苦痛を生み出す。

 もし、ふたりが仮にまったく同じ体験をしたとしても、<共有できない部分>というものが必ずある。

 たとえばだれかとディズニーランドに行き、アトラクションに乗り、一緒にランチをし、手を繋いでパレードを観てみる。そうして同じ時間を過ごしてみたあと、ふたりはまったく同じ気持ちをお互いに抱いているだろうか。

 僕はそうではないと思う。そのとき、お互いに「好き」という感情を抱いているかもしれないけれど、心という容れ物が「好き」という感情のみで満たされるわけではないことを、なによりも僕たちはじぶん自身で知っている。その「好き」という感情さえも、言葉で「好き」と表されているより遥かに深くどろどろとした、つかみとれないものでできているのだということも。

 僕たちはみなそれぞれ孤独を抱えている。僕たちは永遠に他者でしかない。

 そういうとすこし冷たい言葉のように聞こえるかもしれないけれど、僕が僕であり、あなたがあなたであり、お互いに他者であるからこそ、僕はあなたやだれかといった他者を求めることができるし、あなたも僕やだれかのような他者を求めることができる。

 たとえばあなたに愛する誰かがいたとする。

 その愛するだれかが他者でないのなら、もはや相手を求める必要もない。見つめたいと望む顔も、握りたいと祈る手も、同じ道を歩きたいと願う足も、そこには存在しない。ただそこにはあなたの顔があり、手があり、足がある。あなただけがそこにある。あなたの愛するだれかという存在はあなたのなかに溶けこみ、どこにもいなくなる。そのだれかはあなた自身なのだから。そしてあなたにはそのだれかを認識することはできなくなる。あなたがあなた自身のなかにある他者をまとめて「私」であると思っているように、あなたはあなた自身を相変わらず「私」であると認識し、あなたの愛するだれかという存在は「私」として同一化する。

 あるいはその逆であるかもしれない。それはどちらでもいいけれど。

 どちらにせよ、あなたはまた"孤独"になる。

 そしてまた同じようにべつの他者を求めさまよい、ふたたびその結論に至るのであれば、さいごにこの世界に存在するのはあなただけになるだろう。ありとあらゆる他者があなたそのものである世界なのだから。

 

 ここは天国か…?

 地獄か?

 

 山本英夫ホムンクルス 15巻』

 

 あなたのなかにある、その<共有できない部分>こそが、あなたがあなたであるということを支え、僕が僕であるということを支え、だれかがだれかであるということを支えている。