Birdie『世の中で悪用されている心理テクニック』②

 Birdie氏の著書を読んで考えたことを書いてみる。

 ダレン・ブラウンが冒頭で語っている通り、自分の催眠術が本当に掛かっているのかどうかということは基本的にわからない。それはBiridie氏も著書のなかで語っている通りだ。それは感情・感覚支配より深いトランス(記憶支配・味覚支配・幻覚支配など)になるとより顕著になる。それは催眠現象を本人しか体感できないということに由来している。トランス状態を把握するさまざまな生理学的指標はあるが、本当に観客に催眠現象が起こっている、ということは保証されない。なぜならそれはクオリアであり、「本当に面白くなっているのか」「本当に忘れているのか」「本当に味が変わっているのか」("本当に"の定義はとりあえず措くとして)という主観的体験の成否を問うことは困難を極める。喩えるならそれは同じ赤を見て「あなたは私と同じ赤を見ているのか」と問うことと同義だからだ。

 ありていに言えば即席のサクラになっている(なってくれている)可能性が常にあるということだ。催眠術というのはそうした曖昧さの上に成り立っているものであって、どれほど優秀な催眠術師であろうと、観客に現象が起こっているのかどうかは定かでなく、基本的には手探りで催眠術という一連の手続きを行っている。

 ただ即席のサクラという考え方はそれほど悪くはない。パフォーマンス本意で考えれば結局のところ「あなたはこのペットボトルが面白くなります」と言いながら催眠術師が指を鳴らし、ペットボトルを凝視しながら観客がそれに釣られて笑ってさえくれれば、催眠現象として、あるいはその場に於いてはショーとして成立するからだ。つまり現象を起こした者勝ち、ということになる。観客が笑ったフリをしてくれていようが、催眠術的な手続きによって笑ってくれていようが、それはどちらでもいいことだし、こっちからすれば結局どちらなのか判断できない。メンタルマジック等ではより不可能性を高めるためにその場でサクラを作るという例はしばしばある。

 催眠術とはそもそも行動の外在化を強調する言語的表現により、現象の非自発感を高めたものでしかない、とする言説がある。『現代催眠原論』を読むとその下りは出てくるはずだ。ことカタレプシーや被暗示性テストなどに関しては、この言説には合理性があると思っている。最もポピュラーな"指の接近"が催眠術ではなく、観念運動によるものであるというのは有名な話だ。指が閉じていく観念運動(類催眠現象)を、非自発感を高める言葉遣い(どんどん指がくっついていきます……)によって催眠術に掛かっていると錯覚させることで、トランスを深めていくというプロセスはこれそのものである。また、凝視法によって導入を行う際に目の疲労を利用しながら非自発性の高い話法を使うのも同様である。カタレプシー等も筋肉の疲労などを利用することが多く、この言説にはかなりの説得力がある。

 また、感情支配域よりも後になっても、これはかなり実感に即している。詳しくは述べないにしても、観客の感情をテクニックで"釣り"、それをさも非自発的な言葉遣いによって外発的に起こっているかのように錯覚させるプロセスを辿るからだ。ここからは観客の自己催眠という要素が入ってくるが、威光暗示(これがほとんどでは?)、非自発的な言葉遣い、催眠術の細かなテクニックによって自己催眠に誘導しているのだと考えれば、この説は充分に説得力を持つ。これは記憶支配だろうが感覚支配だろうが同じことだろう。

 また、催眠術的な手続きの仰々しさや、催眠術師の威光の形成によって「空気を読めよ」と言外に伝えてしまっているケースは充分に考えられる。たとえばもっとも深いトランス状態が必要と言われる幻覚を見せているとき、相手は空気を読んで「見える」と言ってくれているのかもしれない。また、本人の自己暗示により本当に見えているかもしれない。よく幻覚を見て泣いている映像があるが、単純に幻覚を見ているというよりはより強い感情を喚起され、思い出して泣いているだけの可能性もある(そしてそれを上手く利用したのがBirdie氏の"イージーファントム"ではないか)。そして、どの場合も催眠術師から区別はつかない。ただ、パフォーマンスとしてはどれも成功しているので、どれでも構わない。

 Birdie氏の「この世の全てが催眠術であるし、この世に催眠術など存在しないとも言える」という言説は正しいと僕は思っている。