映画『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』

 ひとりで観ていてボロボロ泣いてしまった。涙なしには観られない映画だった。正直、退屈な場面も多かったが、そうした欠点がどうでもよくなるくらい、これはとてもよくできた映画だと思う。

 冒頭で野原ひろしがマッサージ店で目覚め、帰宅する。このシーンは非常に巧妙だ。実際には『野原ひろし』から『ロボとーちゃん』に視点がすり替わっているのだが、その時点での観客は「野原ひろし」が改造人間にされてしまった、とミスリードされる。主観視点で帰宅するとき、人格や記憶など全てが『野原ひろし』そのものであり、同一性および連続性があるということが示唆されているからだ。

 これがラストシーンで生きてくる。

 再びラストシーンで『ロボとーちゃん』の主観視点に切り替わる。このシーンの切なさは圧倒的だ。もう思い出すだけで泣きそうなくらいだ。あくまで『ロボとーちゃん』は『野原ひろし』の複製に過ぎないことがわかっている。プログラムを書き換えられればすぐに暴力性を発露できてしまう危うい存在だということもわかっている。

 しかし、あの時点で実際に『ロボとーちゃん』の体験しているリアリティは過去の『野原ひろし』の人生と地続きなのだ。『嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』の回想で描かれた、父の自転車の後ろに乗り、みさえと恋に落ち、しんのすけやひまわりの父として、家族を支えるために必死で働く、そのリアリティそのものなのだ。そのことが、冒頭の主観視点と繋がって感覚的に理解できるようになっている。

 そして『ロボとーちゃん』は、自分からすれば偽物でしかない『野原ひろし』と腕相撲をする。自分は『野原ひろし』でありながら、みさえの「あなた、勝って!」というその言葉が、自分に向けられたものではない、ということに気がついてしまう。そうして自分の家族を、もうひとりの『野原ひろし』に託すのだ。あのシーンで描かれているのは紛れもなく『野原ひろし』の"死"であり、その家族との離別に他ならない。

 「すまんな、しんのすけ……俺は、お前のとーちゃんじゃなかったみたいだ……」

 ひたすら痛切だ。こんなに悲しい映画は見たことがない。

 ただ、小さな頃からなにげなく『クレヨンしんちゃん』という作品を観続けてきた世代だからわかる作品なのかもしれないな、とも思う。熱中して観ていたとかそういうわけではないが、テレビで気がつくと流れていたアニメだからこそ、バックボーンが理解できたり、さまざまなことを頭の中で補完できるのかもしれない。これを『クレヨンしんちゃん』の中身を知らない方が観ても退屈なシーンが多いので、少し辛い気はする。